コラム

伝統建築を守るひと 【vol3:函館市 川越電化センター 川越氏】

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October 27, 2016
written by 中村風詩人

弊社とご縁がある「伝統建築を守るひと」にスポットライトをあて、代表の四方田がインタビュー形式の対談にてお伝えします。
第三回目は、北海道函館市末広町にある川越さんが守る、川越電化センターです。これが建築や町並みに対して考えるきっかけになれば幸いです。

K|川越誠司さん(弟)
S|川越早苗さん(姉)
Y|四方田

竣工:1907年伝(明治40年)
構造:木造2階建(坪数:350坪)
所在地:函館市末広町18-30
所有者変遷:リューリ商会(1907)・北洋問屋冷蔵庫(19xx)〜商工中金函館支店(19xx)〜渡辺商店倉庫(-1983)・川越電化センター(1984)※御本人に確認するも不明時期あり
設計施工:不明
初代所有者:メイエル・モイセーエヴィチ・リューリ(ロシアの漁業家)
指定:市景観形成指定建築物

K|この建物を購入したのは私が23歳の時でした。購入したのはもちろん私ではなく、父の川越耕吉でした。ちょうど店舗に出来る建物を探しているところで、私達はこの現川越電化センターの向かいで商売を営んでいました。
Y|それは何年頃のことでしょうか。
K|1984年のことです。当時は渡辺商店さんがこの建物を使っていました。ご近所だったので、ちょうど渡辺商店さんが建物を手放したいという知らせを聞いたので、店舗に使えそうだったらという前提で購入を申し出たのがきっかけでした。
Y|約30年前ですね。その頃は、渡辺商店さんがバルコニーを壁にしていたと聞いていますが、今の形に改修されたのは何か理由があるのでしょうか。
K|理由ではないかもしれませんが、渡辺商店さんの前の持ち主だった商工中金函館支店さんの知人から昔の写真を見せてもらう機会がありました。そこには今のような3連バルコニーが映っていて、せっかくならこの形を復元しようという話になりました。この3連バルコニーは当時函館内に他に2棟あったそうです。どちらも今は残っておらず、残ったのはこの建物だけですが、もしかしたら当時この作りは流行っていたのかもしれませんね。
(※文末に旧リューリ商会建築の変遷表記)
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Y|やっぱりいいですね。3連バルコニーはこの建物の何よりの魅力になっていると思います。
K|ですが建物に住むというところでは良い事ばかりではありません。やはり古い建物でしょう。風に煽られればギシギシ音がするし、トラックが通るだけでも地震が来たように揺れてしまいます。もちろん冬は寒いですし・・・。ですが、それでも補修はして良かったと思っています。
Y|ところで補修費はおいくらぐらいかかったのですか。
K|1500万円です。30年前なので結構な金額だったと思います。やはり補修しないことには店舗には難しいくらい痛んでいました。金額も実は土地代だけで建物は付いてきただけなのです。他の2棟もそのまま譲り受けました。
Y|他の2棟というと、この建物の他に敷地内に建っていたということですか。
K|気付きませんでしたか。隣の建物と、あとはすぐ近くに3階建の石蔵がありました。それは立派な石蔵で、できたらそちらも改修してワインバーにでもしようなんて話さえあったほどです。
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Y|意識していなかったせいか、本当にすぐ隣にありました(笑)。でも残りのあと1棟が見当たりませんが・・・。
K|もう1棟の石蔵は渡辺商店さんが味噌蔵に使っていたみたいで私達が譲り受けた時には既に回復が難しい状況でした。味噌なので麹菌のカビがひどく建物を使える状況ではとても無かったのです。よかったら隣の建物の中を見てきますか。
Y|是非お願いします。
K|2階にあがってみてください、昔は卓球場にしていた場所です。そのあとにドレスの販売や保管をしたりして今もその名残があります。かなり汚いままですが・・・。
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Y|貴重なお部屋を見せていただきありがとうございました。
K|長く使っていないので汚いままでしたが・・・。
Y|いえいえ。ところでこの建物は旧リューリ商会としてよく紹介されていると思います。
K|はい。聞いた話ですが、ロシア革命の残党が日本に渡って商社を立ち上げた時に使ったそうです。それが明治40年、リューリさんという方が建てた会社でした。改修をして分かったことですが、その頃の外壁はピンク色でピンクハウスと呼ばれていたそうです。塗装の後をみたら、実に7色に塗り替えられていたそうです。(※文末にリューリ氏のプロファイル表記)
Y|この建物は当時のものでは無いのではなく建て替えられたのではないか、という説を聞いたことがあるのですがご存じですか。1921年の函館の大火で焼失したかもしれないという説です。
K|どうでしょう。この建物は私が知る限りは、当時のものだと思います。函館市の方もそう言っていました。
Y|どこか当時のままの部分などはありますか。あるいは面影を残すところなどは。
K|窓枠は全部当時のものです。ペンキを塗って綺麗にはしましたが。特に2階のドアは飾り枠を含めて当時のままの形で残っています。
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Y|とても重厚な作りですね、高級感があります。
K|ここ末広町は、当時言わば函館のウォール街でした。日銀をはじめ、いくつかの銀行、老舗企業などが並ぶ場所だったのです。私達が来た頃は、自分たちが一番の新参者でした。今思えばウォール街で電気屋を営んでいたものですから異色の商売でしたね。あ、私は仕事があるので途中ですが失礼して、あとのお話は姉が伺います。
Y|承知しました、お忙しいところありがとうございました。

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S|住み始める当時は、野良猫が自由に出入りするような大きな穴がいくつも空いていたのです。今も裏手にある駐車場のあたりをうろうろしながら中にまで入って来ようとするのです。困っちゃう。
Y|鳴き声が聞こえていましたね、ドアの方から視線を感じていました。
S|私はあまり建築のこととか家のこととか分かりませんよ。
Y|大丈夫です、少し函館のことまで話を広げてお伺いしてもよろしいですか。こういった目立つところに住んでいると観光の方とかが見に来たりしませんか。
S|時々ありますよ、外国の方とかもよく覗いていかれます。建物見たさというよりは隣に坂があるでしょう。この坂は大三坂と言って日本の道100選に選ばれているのです。
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Y|風情がある坂ですからね。秋の紅葉は本当に素晴らしい。
S|すぐそばに植わっているナナカマドが時期を迎えると真っ赤に染るのです。それを坂の上から見るとまるで黄泉国のような景色に見えます。それはそれは美しい景色ですよ。そういう意味では、観光のためにもこの建物を維持しないといけないのかなぁと感じるときがあります。
Y|素敵なお考えだと思います。それに既に30年もの間綺麗に守ってきていらっしゃる。
S|実はこの建物を守っていこう、という意気込みはもともとありました。30年前の川越電化センターは、函館で有名なイカ釣り船とかの電気設備を沢山作ったりしていて、社員も40人ほどいる時期がありました。その頃は自力で維持していこうという意気込みがありましたが、今は見ての通り弟と二人きりという規模です。建築遺産として残したいという気持ちは・・・ありますが、今はそこまで考える余裕は多くはありません。もし函館市自体が観光で食べていくという決意をしてくれたら少しは変わっていくと思います。
Y|40人もの社員さんを抱える時期があったとは驚きです。函館市内でも立派な大企業ですね。函館は観光地として魅力的だと思いますが、今のままでは駄目なのですか。
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S|今のままで、というよりは昔のままであってくれたら良かったのかもしれません。そう、今までが良すぎたのだと思います。ここ函館は美しい海に囲まれ、イカはもちろん魚介類も何でも美味しい。それに夜景はいつの間にか日本三大夜景に選ばれ、緑や山も豊かです。そういった地の利のお陰でここまで観光客も絶えずにやってきました。ですが、一方でそういった地の利に甘んじて、観光を伸ばす努力をしてこなかったようにも思っています。その証拠に、「函館と言えば」と聞かれた時に、「一体何だろう」と、函館に住む私自身考えてしまいます。イカでしょうか、あるいはパンでしょうか。ちょっとした函館名物は、もしかしたら少しの努力で生まれていたかもしれないのです。
Y|それは聞いているだけでも歯がゆい思いです。でも函館山の夜景は今も素晴らしいと思います。

S|確かにとっても綺麗。ですが、函館山からの夜景を見て、いつも明かりのバランスが良くないと感じます。これは電気屋だからかもしれません笑。今や日本三大夜景の座も既に移ってしまいました。函館山から藻岩山(札幌)に、その座を譲ってしまったのです。このままでいいのでしょうか、でも一人では何をしていいか分かりません。そんな焦りにも似た気持ちがあります。
Y|すぐに変わらないことだから余計に焦ってしまう気がします。函館がどうなっていくと良いと思いますか。
S|函館に人が来てくれることが何より嬉しいです。住みたいという人でも仕事でも観光の方でも。この町が良くなって欲しいとは言いません。でも悪くなって欲しくない、そんな気持ちです。さきほどお話した、目の前にある日本の坂百選の大三坂がありますよね、私毎日その坂の看板を拭いて綺麗にするのが日課なのです。
Y|それは素晴らしいことですね。そういう日々の積み重ねを多くの方がするようになれば、悪くなることなんて絶対ないと思います。でもなかなかそれは出来ないことです、なにが原動力なのでしょうね。
S|きっと愛しているんです、函館を。
Y|とてもよく伝わってきました。本日はありがとうございました。
S|こちらこそありがとうございました。
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【旧リューリ商会建築の変遷】
リューリ商会が明治40年(1907年)に建てたのが前身。実際は現建築は1921年〜25年頃に再建か?木造2階建て。市の伝統的建造物、且つ歴風文化賞の認定。川越さんが購入されたのは1984年、当時は北洋漁業関係のお仕事をされていた。
リューリ商会とは、ロシアの漁業家メイエル・モイセーエヴィチ・リューリ(1881~1954)が、明治35年(1902)に弟アブラムともに設立した漁業会社のこと。その函館支店にあたる。半円型三連アーチバルコニー(呼称ベイバル)が特徴。1985年に歴風文化賞を受賞している。

【メイエル・モイセーエヴィチ・リューリ氏経歴】
ロシアの漁業家。1902年漁業会社創業、1906年初の来日、1907年函館支店開設、1919年リューリ一家来日横浜在住、1921年函館大火、再建?1923年一家は函館へ転居。1927年不漁による倒産危機、その後は借り入れの続く経営難を経て、倒産退去(1933)。